2014
09.08

アウェアネス(後半)

(「アシュタヴァクラ・ギーター」私訳)

何ものも、わたしのものにあらず、
されど、考え得るもの、語り得るものすべてが、
わたしのものである。

わたしは知る者ではなく
知られる側でもなく、
知ることでもない。

これら三つは実在ではなく
わたしが知られていないときのみ
それらは真実にみえる。

わたしには、欠けたるところがない。

ひとつから二つが生じること。
これが苦しみの根本である。

わたしは二つがないひとつであり、
純粋な意識、純一な喜びであり、
すべての世界は偽りだと知覚すること、

ほかに療法はない。


かつてわたしは
無知によって
自らを束縛されたものと考えた。
しかしわたしは、
純一の意識である。

わたしは、あらゆる区別を超え、
破られざる瞑想の中に住む。

事実、
わたしには束縛も自由もない。

それで幻想は終焉だ!
幻想は、まったくの事実無根なのだ。

創造のすべては、
わたしによって存在できるが、
土台がないものなのだ。

体は、ないのだ。
世界は、ないのだ。

このことを完全に知るならば、
それらが作られることはないだろう。

セルフとは、純粋な意識であり、
それ以下のものではない。

体は偽りであり、
そこから生じる恐れも、
天国と地獄、自由と拘束も、
それらはみな、創作である。

どうしてわたしの問題たり得よう?

わたしは意識そのものなのだから。

わたしは、「ひとつ」だけを見る。

多くの人々も、
渾然たるひとつの群集である。

ならば、わたしは何に執しよう?

わたしは体ではなく、
体はわたしのものではない。

わたしは別けられたものではない。

わたしは意識それ自身であり、
いのちへの渇望のみがわたしを縛る。

わたしは無限の海。
思考が芽生えるとき、
新しく風が吹いて、
波のように数多の世界が生じる。

けれども、風が止むとき、
商人は、船とともに海に消えるのだ。

わが存在という、果てのない海洋に
彼は、
すべての世界とともに沈むのだ。

けれども、ああ、何と素晴らしいことか!

わたしは無限なる深み。
すべての生き物たちはその中に生じ、
互いに出会い戯れ、
そしてのち、消えてゆくのだ。



参照元:The Heart of Awareness:a translation of The Ashtavakra Gita



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