2011
06.19

ラマナ~自由意志(続き)

昨日のラマナの日記について、読者の方から内容が理解できにくいとの感想をいただきました。うまく説明できるかどうかわかりませんが、トライしてみたいと思います。

ラマナが一貫して説いていたことは、「自己とは、自分とは何者かということであり、それを常に問い続けていくことで概念、思考、記憶、物的霊的事象を含めたあらゆる存在の発生源である「真我」という自己の本体に意識を集中させ、溶け込ませる」ことだと思います。彼はそれを自らの肉体で実践、体現した人のようです。

僕は、ラマナ・マハルシの本は、「あるがままに」の一冊しか読んでいませんが、その孫弟子であるガンガジ、オプラ・ウインフリーによって世界的にブレークしたエックハルトトール、日本では先に津留晃一、最近では阿部敏郎などの流れを見ると一つの共通点が見えてきます。それが、真我、存在、静寂、いま、意識、などで表現される私たちの実体、真の姿です。

人が、その本来の姿である真我に溶け込んだとき、それ以外のあらゆる事象は消滅します。存在しないことになるようです。唯一存在するのは、意識であり、存在、I AM(私は在る)であり、それが真の自己、真我なのです。自己が真我に溶け込むことを悟りを得る、目覚めるといい、いにしえから、仏陀やキリストを始め、禅やヒンズー教の聖典などが説いてきたことも同じです。自己の本体であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンが同一であると説いたアドヴァイタ・ヴェーダンタ学派の流れもそこに含まれ、ラマナの教えも同根であると感じます。

つまり、運命やカルマ、自由意志というのは、真我に溶け込んだ人にとっては存在しないことになるわけです。もうその支配の中には属さない存在となるわけですね。これらが支配権を持つのは、個人という概念の中に生きている人に対してであり、個人、エゴという波動を越えて存在している人にとっては、さほど効力を持たないものとなります。実際に、運命、カルマの中に置かれてはいるものの、それらが障る領域が大変少ない状態にある人ともいえるでしょうか。そうなった人には、自由意志という概念は不要でしょう。自由か自由でないかが問題になるのは二極の世界に限られます。絶対の世界に入ったら、不自由などということはあり得ません。よって自由という概念も消え失せます。「自由意志?なにそれ?それって必要なの?」って言う感覚ではないでしょうか(笑)。わたしたちは、自由がないと感じるからこそ、自由を求めるのではないでしょうか?自由が当たり前となれば、自由であること自体が意識されなくなるでしょう。

よく、スピリチュアルな世界で話題となることに、運命、宿命ということがあります。江原さん、三輪さんなどは、運命は変えられるが宿命は変えることができないと説いていたと思います。ラマナはここでは、扇の上げ下げまですべて決まっていると教えています。どちらが正しいのでしょうか?ラマナは、江原さんたちのように説いたことはなかったのでしょうか?僕には定かでありません。しかし、それは、見方による、見る視点によって変わると考える方がよさそうな気がします。個人としての意識が強いうちは、運命と宿命の違いを分けたがる、そうでないと割り切れない、つまらない、そのほうが面白いと思えるのです。しかし、すべてが過ぎて人生の終焉を向かえ振り返ったとき、「ああ、全部決まっていたんだ」という見方をするのが自然だと思います。そのときは、個人としての終わりを感じており、もう何一つ変えられないわけですから。
あるいは、どっちを説いてもいいということになると思います。なぜなら、最初から「個人」などというのは存在していない幻想と知るならば、幻想の中の出来事が決まっているかいないかを議論する自体がナンセンスであると気づくからです。

以上、僕はうまく伝えられたでしょうか。個人的には、運命のすべてが決められているとする考えの方が楽な気がしています。どれが運命でどれが宿命かなど、誰にもわからないと思うし、それを考え出すと執着が生まれ迷いますよね。


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コメント
え~と。
この記事も、わたしにはやっぱり難しかったです。
てへ(#^.^#)
けど、「あ~それならわかる!」と思ったこともあります☆

個人、エゴという波動を越えて存在している人にとっては、さほど効力を持たないものとなります。

ってとこと。

最初から「個人」などというのは存在していない

ってとこ。

これは、自身の『体験』から『体感』せざるをえませんでした。
その件に関しては、またブログに綴るつもりでいるのですが。

わたしはもう、自分の思い出した(?)過去生を、自分個人の過去生だとは思えなくなっている・・・というより、思っていないのです。

けど・・・
makaさんが書いて下さった記事の全容について理解するには、やっぱりどうしても『体験』が必要なのだろうなと思われ・・・

それは、わたし自身が感じているジレンマでもあります。
どうやら、わたしが記事に書いている内容の真意は、わたしが思っている以上に読者さんには伝わっていないようなのです(^_^;)
が、この件に関しても、makaさんが書いて下さった「あるがまま」の記事を読ませていただいたことで、また改めて、「まあいいか。あるがまま。いつかわかってもらえる日がくるさ。たとえもし来なくても、それはそれ。まあいいか(^。^)y-.。o○」くらいに思えるようになりました。

だから・・・

たとえ難しくても、すぐには理解されなくても、伝えようとすること、本当の自分を表現することは、これからも続けていこうと思います(^^ゞ

この手のことについて説明するのって、すっごくめんどくさかったことと思います(^_^;)
そもそも、理屈じゃ説明の仕様が無いことなんですから。
それなのに、おバカな質問なんかしてお手を煩わせてしまって、本当に申し訳ありませんでしたm(__)m
けど、迷惑がらずに対応していただけて・・・
すっごく嬉しかったです☆
ありがとうございました!<(_ _)>
ねこきちdot 2011.06.19 18:51 | 編集
ねこきちさん、

>これは、自身の『体験』から『体感』せざるをえませんでした。
その件に関しては、またブログに綴るつもりでいるのですが。

体験でこれを知ったというのは凄いですね!ぜひシェアしてください☆


ねこきちさんのブログ、統合体験やなぜこのブログを続けるか、など、読ませていただきました。
すばらしいブログを書いていますね。
自己の内側を隠さずに書ける人は、そう多くはいません。

(僕など呈のよいことしか書いていませんから。(汗))

勇気と博愛精神が豊かな人、自己に寛容な人にしかできないと思います。

これからも読ませていただきます☆

ありがとうございます。
makadot 2011.06.20 20:15 | 編集
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