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2013
09.16

「私がこれをしている」という感覚

「私がこれをしている」という感覚がある限り、
人はよいものでも悪いものでも行為の成果を経験しなければならない。

「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。

真我が実現されない限り、「私がこれをしている」という感覚が消え去ることはないだろう。


ラマナ・マハルシ


人は、行いによってその実際を知ることができる、というのは確かかもしれません。その人が大切にしている価値観が端的に表れるのは、社会的な目が周囲にない状況においてその人が取る行動ではないでしょうか。建前ではなく、本音が出るのは、そんなシーンにおいてですね。

一方、人は、行いだけで存在しているわけではありません。その人のあり方、いまある状態、感覚的な反応なども含め、現れ方は十人十色であり、広い意味ではこれらも行為と言えます。肉体的な癖や精神的な癖や各種の病気、遺伝的傾向、後天的環境による影響などによって、その人の現在のあり様が形成されているのです。それらのすべての要因が複雑に絡み合い、一個人と観えるホログラムが形成されているのです。そしてそれは、神の描く壮大な敷物の一ピースとして、しかるべきところに組み込まれているわけです。どんな変てこな、見にくいピースだったとしても、それで完ぺきなピースなのです。

従って、その人のいまの「あり方」を観て、いかに欠けたるところがあったとしても、そこに何らかの問題を見出すのは見当違いです。たとえ思いやりがなくても、落ち着きがなくても、嘘つきでも、怖がりでも、ずっと病気であっても、その人自身の中に、責められるべき何かがあるわけではありません。なぜなら、そうした現れの根源は、結局は神の力によるものであり、個人として存在するように見えるその人が責任を負えるものではないからです。責任を負うべき個人とは、辿っていけば不実在です。
個人とは畢竟、思考と記憶とエーテル的エネルギーの残存に何の誰平と名付けた幻です。存在しないものに、責任を負わせようとすること、これすなわちマーヤ(幻想)です。「汝、裁くなかれ」はここで使われたのです。

真我を思い出せば、こうしたことが自ずと明らかになるということでしょう。ですから、「私がこれをしている」、ではなく、すべてにおいて、本当は「神がこれをしている」、「真我がこれをしている」ということなのですね。

こうして考えると、人という肉体に繋がって存在する間に何を最優先して生きたらよいかが、明白になります。



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