2013
07.29

カルマとか運命とか 2

Category: 創作寓話
神さま:器夫や、今日もまかり出たぞ。

器夫:静ごころの神さま、こんばんは。

お待ちしていました。

昨日は、人間の持つ三つの要素の構成によって運命が創られるというお話で終わりましたね。

そしてそれらは、クリシュナ神の属性たる根本原質から生まれるのだと。


神さま:うむ。そうじゃったのう。

純質(サットバ)、激質(ラジャス)、暗質(タマス)の三つじゃった。

これらの性質は、食べ物や衣服や趣味、考え方や言葉など、いろいろなものについて言えることじゃ。


たとえば食べ物でいえば、辛いもの、刺激ある食べ物・飲み物はラジャスじゃ。

古くなったり腐りかけたものはタマスじゃ。

サットバは体に負担のない新鮮な野菜や穀類など滋養に富んだものじゃ。


サットバは、光、喜び、幸福、平和に繋がり、ラジャスは、激情や活動や貪欲、渇望に繋がり、タマスは、無活動、迷妄、怠惰に繋がる性質をもつのじゃ。

その人の割合に、純質が多く占めれば、その人は明るく、調和した、健康な人となる。

激質が多ければ、争い事や不和や劇的な言動の人となり、暗質が多ければ、病気や不平不満の多い人となるじゃろう。


器夫:なるほど…。

そうすると、この事実を知って、純質が多くなるように努めれば、次第に運命がよくなるということですね。

でも、生まれた時点でこれらの構成が決められていて、たとえば、激質が多ければ、どうしてもそういう生き方になってしまうということでしょうか?

暗質が多ければ、どうしてもやる気の出ない一生になってしまうというか、そうなりがちなのでしょうか?

だから、いつまでたってもこの世の中から争い事や不正が絶えないのでしょうか…。


神さま:確かに、この根本原質のさらに上に、クリシュナの神がいなけれがそういうことになるじゃろう。

だが実際は、この運命というシステムの上にはクリシュナ神がいて、人の意識もみなそこにあるのじゃ。

だから、それを知ってクリシュナを信じ愛する者は、カルマのシステムを超えることができるというのじゃよ。

ギーターでは、それを「信愛」と呼んでおるのう。

いつも心から何かを信じ愛しているものは、意識においてはその何かとひとつになってしまうものじゃ。

神の場合とて同じなのじゃのう。

神を愛すれば、知らぬ間に神となるのじゃ。

聖書にも「心を尽くして汝の神を愛せ」とあるのう。


器夫:はい。想いを尽くし、精神を尽くし、すべてをもって神を愛せ、とあったと思います。

その感覚、深い部分で共鳴するものがあります。YES!と叫んでいるものが…。

でも、身体レベルでは、三要素に影響され、気がつくといつもその波の中であえいでいる自分に気付き、落ち込んだりしてしまうのです。

依然変わらない自分に、ほとほと嫌気がさしながらも、そんな自分さえ手放せないというか…。


神さま:そのようじゃのう。

それは、そなたがまだ、自分が行為者だという想いをもっているからじゃ。

この世界では、行為者とは、まず人間のことじゃからのう。

「これは誰々の仕業だ」「誰々が××をした」といういう言い方があたりまえじゃ。

だからその行為者を法律で裁くことで一件落着じゃ。

それ以外にやりようがないのじゃからのう。


じゃが、クリシュナは、人は行為者ではなく、行為者は3要素だと説くのじゃ。

そして、事実はその通りなのじゃ。

人が、個人が行為するのではなく、要素が行為させているわけじゃよ。

行為していると思っている「人」とは、実は3次元のホログラムであり、行為する力などないものじゃ。

ただの立体映像に、行為のしようもないからのう。


この見方ができるようになると、自分も人も裁かないようになるのじゃ。

真実が分かると、裁かなくなるのじゃよ。

そして、裁かれないなら悪いことをしよう、というようには、ならないものじゃ。

その発想自体が、裁きの発想から生まれるものじゃ。

だから、法律がたくさんある文明は、まだまだ未熟な水準ということじゃのう。



では、残りはまた次回に話そう。

筆先の役、ご苦労であったのう。


器夫:いいえ。行為者とは何なのか、僕はこれまで疑うことすらありませんでした。

まだよくわかりませんが、神さまの仰ることが真実な気がします。

今日もありがとうございました。






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