2011
05.15

遠藤周作の「沈黙」「イエスの生涯」「キリストの誕生」

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ここ一ヶ月ほどをかけて、遠藤周作の「沈黙」→「イエスの生涯」→「キリストの誕生」と読んできました。

遠藤氏のキリスト観は、神の愛だけを説き、それまで裁く神、怒れる罰する厳しい旧約の神だった存在を、愛の神として新しく人々に広めんとした、現実には無力な、弱弱しく力なきイエス・キリストです。

これらの本の中には、イエスとそれを取り巻く弟子たちや迫害し裁く者たちが、命を吹き返したかのように見事に描かれています。氏の、作家としての、クリスチャンとしての体験と視点がそれを可能にしているのでしょう。何より、イエス、キリストに対する遠藤氏の深い愛と尽きることのない関心が、氏をしてこれらの三冊を誕生させたのだと思いました。

教会ではあまり話題にされないような、弟子たちの間の信念の違いや葛藤を新約聖書の何気ない表現から見つけ出し、他の出典でそれを肉付けして独自の視点を示す辺りは、さすがは小説家だと思わせるものがあり、面白いです。

クリスチャンの側から見ると、さまざまな超能力を発揮した力あるキリスト、奇跡をして神の愛を現したキリストの側面が、完全にオミットされた形となり、不満が残るでしょうね。遠藤氏にとっては、キリストの現した奇跡は重きを置くべきものではなく、そのときの人々の精神的事象が奇跡として福音書での表現になったと理解しています。

また、氏が、共観福音書のマタイ、マルコ、ルカ伝に触れはするものの、ヨハネ書だけはほとんどノータッチだったことには、肯けるものがあります。ヨハネ伝に踏み込めば、聖霊に関する言及が不可欠になるからです。氏は、これらの3冊の中で、聖霊に関しては一言も触れていません。使徒行伝でも聖霊降臨の箇所は飛ばしています。「キリストの誕生」の最後でわずかに、Xとしてそれらしきを表現するに止めています。

言い換えれば、遠藤氏は、あらゆる人間心理、精神性、豊富な体験と知識をもってイエスキリストの人と宗教を描き出しましたが、霊的な側面からは、敢えて触れることを控えたといえます。遠藤氏自身も書いていますが、これでイエスキリストを描ききった、描ききれたなどとは思っていない。時が過ぎてまたイエスについて書けば、それは違ったものになるはずだと認めています。

ともあれ、往時の歴史的背景とイエスや弟子たちの「いま」を、氏の三つの労作によって体験することができてよかったです。遠藤周作さんに感謝します。
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